2008年3月12日水曜日

アメーバー化する人権擁護法案

 人権擁護法案が15日にも提出されるという。もともとは行政機関による人権侵害を防ぐための法案だったが、途中から国民全体を取り締まる法案にすり変わり、人権擁護委員会という機関にほとんど制約のない捜査権をあたえている。

 人権擁護委員会は警察よりも強力である。警察は法務大臣の指揮下にあり、家宅捜索をおこなうには裁判所から令状をもらう必要があるが、人権擁護委員会は形式的には法務大臣の管轄下にあるものの、独立して職務をおこなえることが明記されており、裁判所の令状なしに他人の家に立ち入り、関係書類を検査することができる。また、警察は管轄区域以外で捜査をおこなうことはできないが、人権擁護委員は自分が任命された市町村以外でも捜査等がおこなえる。

 差別かどうかを決定するのも裁判所ではなく、人権擁護委員会である。そもそも法案には差別の定義が明文化されていない。人権擁護委員会が差別と断定したら、反論の余地はなく、差別にされてしまうのだ。

 産經新聞の「人権擁護法案はポストモダン?推進役の東大教授に異論噴出」によると、自民党人権問題調査会が法案推進役である塩野宏「人権擁護推進審議会」元会長を呼んで質したところ、こう答えたというのである。

 塩野氏は「法案はポストモダン的なもの」で、人権委員会を「救済制度の至らないところにどこへでも足を伸ばすアメーバ的存在」とたとえ、法案の必要性を強調した。

 また、塩野氏は加害者として訴えられた人の救済措置が不十分との指摘には「救済制度をつくることはあまり念頭になかった」と不備を認めた。


 アメーバーとはよくぞ言ったものだ。まさに人権擁護委員会は不定形なアメーバーのように好きなところに義足を伸ばし、獲物をからめとってくることができるのである。

 しかし、こういう何でもありの権力をポストモダンと呼ぶのはおかしい。ポストモダンの不定形は相対主義に由来するが、人権擁護委員会の不定形は弱者の言い分を無条件に真実とする絶対主義にもとづく。弱者の言い分は絶対的に正しいから司法的判断を介在させる必要はなく、超法規的な無制約の権力を行使させてよいというわけだ。

 これでは冤罪だらけになりかねない。しかも、塩野氏は冤罪の救済措置は考えていなかったというのである。


 人権擁護委員会の委員には誰が選ばれるのだろうか。任命するのは市町村長だが、法案には「弁護士会及び都道府県人権擁護委員連合会の意見」を聴かなければならないと明記されている。選挙で選ばれた市町村長には委員を選ぶ権限がないのだ。委員の定数は人権擁護委員会自体が決定するから、お手盛りになりかねない。

 法案はまたいたるところで弁護士の関与を定めている。人権問題にかかわるとなるといわゆる「人権派」弁護士ばかりになってしまうだろう。「人権派」弁護士がいかに偏った考え方をする人種であるかはご存知の通りだ。人権擁護法案は世間から相手にされなくなっている「人権派」弁護士に水戸黄門の印籠をあたえる結果になるだろう。

 人権擁護委員会の委員になる資格は当初は「選挙権を有する者」とされていたが、途中から「住民」になっている。日本国籍がなくてもなれるのである。

 唖然とすることばかりなので、どうか一度法案を読んでほしい。こんな滅茶苦茶な法案が上程されようとしているなんて、自分の目で読まないとにわかには信じられないだろう。

 在日朝鮮人が市町村から根拠のない免税措置を受けていたとか、奈良で二年間出勤しない公務員がいたとか、弱者利権がようやく問題にされるようになったが、人権擁護法案が施行されたら、そうした事例を報道することは不可能になるだろう。取材途中でガサいれされたら、取材源を秘匿することはできなくなる。北朝鮮による拉致問題の追求だって、人権擁護法案があったら、途中で闇に葬られただろう。ようやくジャーナリズムのメスがはいりかけた弱者利権が、再び巨大なタブーになってしまうのである。悪徳政治家が利権を隠蔽するために、弱者利権を利用することだって考えられる。自民党内の推進派はそれを狙っているのではないか。

 これだけ危険な法案なのに、なぜ大半のマスコミは避けるのか。そして、自民党の一部議員と共産党以外の国会議員はなぜ黙過しようとしているのか。どうか多くの人がこの問題に関心をもってもらいたい。